昭和四十一年八月七日 夜の御理解
段々と信心の稽古をさせて頂いて願わんでも縋らなくても、願う以上、縋る以上のおかげの頂けれる道を体得しなければならん。どうでもその為に本気で縋ってみるのである。本気で願わして頂くのである。ですから縋るなら縋るこちらの態度姿勢と云うものがです、本当に縋っておりますと云うこちらの真を現していかなければいけない。本当に縋っておるのかと、本当に頼んでおるのかと、縋るなら頼むなら本当に縋っておると云う態度、姿勢信心の内容がそこのところを検討を加えて縋っていかなければならない。そしてどうぞ神様がこういう状態になってこういう風に縋ってこういう修行させて頂けば神様がどういう事でもおかげ下さる神様だなと、いよいよ神様の働きをはっきり分からせて頂く。そこからです、私はもう縋らんでもよい、もう頼まんでもよい、とにかくこの神様は只本気で神様の御教えを自分のものにしていく、本気で改まらして頂くことに研かして頂くことに努めさえいけばおかげを下される神様だと云うところに信心はいよいよ限りなく進展して行くのである。信心はいよいよ向上して行く。 信心の位も高くなっていくのである。
人徳も受けて行くことが出来るのである。同時に夢にも思わなかったと云う様なおかげが次から次に頂きおかげの進展も見ることが出来るのである。ここんところを目指さないけんです。それまでには縋らないけん。縋る、願う、いわば態度はこれでいいのかと、こういう心掛けでいいのかと反省をさせて頂ながらそういう信心を進めて行って、成程神様がです、おかげも下さることの出来る神様だと云うことを先ず自分のものにしていかなければいけん。
そこで結局見本になるのが私なんです。私の十五年間の事を皆さん思うてみて下さい。どうぞお広前がこうなりますように、信者がどうなりますように、皆さんが願われることは御取次させて頂きますよ。これは私の事なんです。例えて云うなら、御広前をここ一ぱい拡張して下さいとも願わなかった。どうぞ合楽の地に御造営のおかげを頂きますように、これは私の願いでございます。夢でございます。例えばそういう先生方があるんですよ。一生の間にどうでもいっちょ御広前だけは拡張しなきゃでけん、それを願いにしてござる。だけどそれではおかげにならんと思う。これは私の十五年の信心を皆さんが見て下されば、どうぞああなりますように、こうなりますようにと云う願い、その前に私が申しますところのです、どうぞこの神様に喜んで頂けることならばおかげを頂ける神様だと、こんな修行をさせて貰えば、こういう態度で縋っていけばどういう事でも聞いて頂ける神様だと云うことを確信させて頂いてる。そしてこの神様はどうぞおかげを下さい、おかげを下さいと終始するようなことではいけないと云うところに一つの大きな悟りがある。
そして本気で神様に喜んで頂ける私になることにです、努めなければ駄目です。そして願いもしなかった、それこそ夢にも思わなかったようなおかげが頂けて来る。しかもそれは限りない私の心の中にその信心が続けられる限り、もうこげんところにお互いの信心修行がです、縋ることがあります、願うことがありますけれど、縋ることの内容が段々変わって来る。同時に修行の姿と云うのもいよいよ真剣なものになってくる。
本気で人間二人見るように変わりもしてくる。そこから神様の働きをはっきり願えば願うおかげを頂けるようになってです、神様をいよいよ確信して行けれる力が生まれてくる。その辺からこれは願ったり縋ったりしてどうぞと云うて神様にお願いしておかげを頂くもんじゃないと云うことが本当に分かったらあほらしいて願われん。 云うならば借金になるような願いは云うならば神様が喜んで下さるようなおかげだけしか頂かんと云う様な心構え、同時に信心修行もいよいよ有難い意味合に於いての修行が出来るようになる。それが楽しみ、そこのところに焦点を置いて行きさえすれば神様がそれこそ本当に先回りしておかげを下さる。 こちらが願うことは先の事は分からん。それでもちゃんと万事の上に御都合お繰合わせを下さる。そういうおかげを願うならば又そういうおかげをです、目指しての信心でなければならん。そんな風に思うですね。どうぞ。